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いま、京都画壇の十八世紀を語ろうとすると、伊藤若冲や曾我蕭白あるいは長沢芦雪らの“奇想派”の画家の名が挙げられることが通弊となっている。だが、当時、江湖の人気を博したのは彼らではなく、明らかに円山応挙(1733-95)そのひとだった。
大坂から京都に移住した『雨月物語』『春雨物語』の著者として名高い上田秋成の、とてつもなく面白い随筆『膽大小心録』(未刊)には、
応挙が世に出て、写生といふことのはやり出て、京中の絵が皆一手になった事じゃ。
と応挙風の写生画が一世を風靡した様子が語られている。秋成は与謝蕪村とは親友であったから、蕪村の追い求める画風とは根本的に異なる応挙の絵に好意を抱くはずはなかったが、そんな秋成の証言であるからこそ、応挙風の写生画が都を席捲していたと云う認識の真実性は重い。
狩野博幸(同志社大学文化情報学部教授)-序文より抜粋-