幕末から明治大正期に活躍した富岡鉄斎は我が国最後の文人画の巨匠と謳われています。京都の商家に生まれた鉄斎ははじめ学問の道を志し画は文人の嗜みとして10代後半から学びました。この頃大田垣蓮月(おおたがきれんげつ)の薫陶を受けそれは人格形成に影響を及ぼしました。維新後は念願の神職につき荒廃した神社の復興に尽くしています。大阪堺の大鳥神社大宮司を最後に46歳で京都に帰り89歳で亡くなるまで書画の制作に専念し晩年には帝室技芸員帝国美術院会員に任命され最高の栄誉に耀きました。鉄斎は「自分の画には師承はないすべて盗み描きだ」と言い和漢のあらゆる流派を研究し独学で画を学び「万巻の書を読み万里の路を行く」という文人の理想を実践して得た該博な知識により独自の画風を展開しました。多彩な画題と多様な画風豊潤な墨色とあふれる色彩は鉄斎芸術の大きな魅力となっています。
森藤光宣(鉄斎美術館館長)-序文より抜粋-
重版
幕末から明治大正期に活躍した富岡鉄斎は
我が国最後の文人画の巨匠と謳われています。
京都の商家に生まれた鉄斎ははじめ学問の道を志し
画は文人の嗜みとして10代後半から学びました。
この頃大田垣蓮月(おおたがきれんげつ)の薫陶を受け
それは人格形成に影響を及ぼしました。
維新後は念願の神職につき荒廃した神社の復興に尽くしています。
大阪堺の大鳥神社大宮司を最後に46歳で京都に帰り
89歳で亡くなるまで書画の制作に専念し晩年には帝室技芸員
帝国美術院会員に任命され最高の栄誉に耀きました。
鉄斎は「自分の画には師承はないすべて盗み描きだ」と言い
和漢のあらゆる流派を研究し独学で画を学び
「万巻の書を読み万里の路を行く」という文人の理想を
実践して得た該博な知識により独自の画風を展開しました。
多彩な画題と多様な画風豊潤な墨色とあふれる色彩は
鉄斎芸術の大きな魅力となっています。
森藤光宣(鉄斎美術館館長)-序文より抜粋-